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「有り難い」ことの必然と偶然

 30代の前半、米国の神学校でキリスト教を学びながら、考えたことがある。

 「神を信じる信仰者と、神を信じないという無神論者と、根本的に違うところがあるとすれば、それは何だろう?」

 ちょうど当時、キリスト教国家米国を主力とする多国籍軍がイランのフセイン政権を攻撃する湾岸戦争が勃発しました。石油利権をめぐる政治的な対立があったのも事実ですが、その背景には中世以来くすぶってきた「キリスト教対イスラム教」の宗教的対立もあったと思われます。

 「宗教は世界を平和にしない。結局信仰は強欲を克服できないのか」とも考えることができます。

 ところで私の探求の端緒は、そういう世界的な問題からではなかった。一つの聖句、イエス・キリストが聖書に残した一言から始まったのです。

 「二羽のすずめは1アサリオンで売られているではないか。しかも、あなた方の父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」(マタイによる福音書10:29)

 ある人の換算によれば、1アサリオンは今の日本円で約300円。すると、1羽のスズメはわずか150円で、どこでも見かけ、どこでも手に入る、取るに足りない被造物の一つということになる。

 ところが、そういうものでさえ、神の許可なしには空から落ちることもないと、イエスは言われる。

 しかもその直後には、「また、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」とまで言われる。

 これは一体どういうことか。神は本当にスズメ1羽の運命にまでも関わり、私の髪の毛の数にまで関心を持っておられるというのか。

 これを、信仰を勧めるための一種の比喩とみなすこともできるでしょう。しかし、あらゆる出来事が100%神との関りを持っていると考えることと、それを95%と考えることとの間には、わずかな違いに見えながら、実は天地の開きがある。

 スズメを例に出したこと自体は、重要ではない。スズメでさえもそうなら、それ以外のどんなことでも神の許可なしには起きないと、イエスは言いたのでしょう。

 どんな些細なことでも、ある出来事を必然的に神との関りで考えるか、それともあることは必然のように考え、別のことは偶然に過ぎないと考えるか、それは人生観の分水嶺を分かつほどの重要点ではないか。

 そしてそこにこそ、信仰者と非信仰者との分岐があるのではないかと考えるようになったのです。

 仏教でも、「袖すり合うも、他生の縁」と言います。これも出会いの必然性について説くものでしょうが、大抵はそれを100%などと重く受け止めることはしないものです。

 日本語に、「有り難う」という感謝の言葉があります。これも元は、仏教的な信仰に由来するものだろうと思います。今では「ありがとう」と表記することもありますが、私はなるべく「有り難う」と書く。

 それはこの言葉の意味が、元来、「仏の慈悲など、得難いものを自分はいただいている」という、神仏への感謝から来ているらしいからです。

 従って、昔この言葉は神仏に対してしか用いない、感謝と畏敬の念がこもった極めて特別な言葉だっただろうと思います。

 それが時代が下るにつれて、人に対しても感謝の気持ちを表す言葉になり、「ありがとう」と書くようになった。

 しかし、これでは、「ありがとう」がなぜ感謝を意味する言葉なのか、よく分からないのです。

 さて、問題は、「こういう有り難いことが、なぜ私に起こったか」ということです。これを必然とみるか、偶然と考えるか。

 この「有り難う」にまつわる、私の身に起こった出来事を一つ紹介し、それによって「有り難う」の意味をもう少し深く考えるきっかけにしようと思います。

続きは、次回に。

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