ワシントン・タイムズ・ジャパン

琉球の少年 波瀾万丈の人生 rss

⑱ASEAN協会 アジア復興の夢

 昔、東南アジア諸国にも多く反日感情があった。たとえば政府開発援助(ODA)で支援金を出す。日本はポンと出せばいいものを、いろいろ縛りをかける。工事はこの企業でやれとか、政治家にバックしろとなると、借りる側は感謝の念が薄らぐ。

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⑰ASEAN協会 石原慎太郎会長就任

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 ASEAN協会次期会長人事で、私と親しくしている石原慎太郎氏を副会長にした。

 大来佐武郎名誉会長が亡くなって、次の会長選出も早めに行った方が良いというので、私は「会長は石原氏でいいですか」と稲嶺先生に尋ねた。

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⑯ASEAN協会

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 稲嶺一郎先生には、一つだけお願いした。  「ASEAN協会を引き受ける代わりというわけではないのですが、副会長に石原慎太郎氏を入れてもらえないでしょうか」

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⑮ASEAN協会代表理事

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 80年代後期、沖縄から参議院議員に選出された稲嶺一郎氏から「引退するからASEAN協会を引き受けてくれ」と頼まれた。

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⑭核心突く暴走老人

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 「暴走老人の石原だ」という自己紹介から始まった石原氏の国会質問は以下の通りだ。

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⑬日本経営者同友会の継承

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 日本経営者同友会はそもそも石原慎太郎氏が作った組織だった。それを約40年前、私が石原氏から依頼を受けて継承した。

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⑫集団就職 祖母の守り

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 金を貯めて何かしようという気持ちはさらさらなくて、はいって来たお金は専ら遊びにつぎ込んだ。当時のダンスホールというのは、入場料が250円、コーヒー1杯が50円だった。夕方から深夜1時ぐらいまで営業していた。クリスマスの時はとりわけ盛況で、立錐の余地もないほどだった。

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⑪遊びをせんとや生まれけむ

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 独立して最初にヒットしたのは、カーステレオ用の音楽カセットの販売ビジネスだった。大体、大手というのはこうした小銭しか稼げない隙間商売には関心がない。TBS系列のトミー音芸のテープ部門整理に伴い、依頼を受けた私は倉庫にあるテープ全てを即金で買い受けた。

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⑩トップセールスマンの秘策

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 無事、自動車免許が取れて会社に戻った。すると社長は「お前も変わった男だなー」とあきれ顔で言った。

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⑨老いても心は少年

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 私が勝手に彼の下宿先の背広やラジオを質草にして金を作り免許取得の犠牲になった幼な友達の佐渡山氏はその後、テレビ沖縄の部長になった。

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⑧「石の上の3年」を経て

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 「石の上にも3年」という。それを自分の信条として、3年は頑張ってみようと思った。

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⑦集団就職、バイトで稼ぎ遊びで散財

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 集団就職先は東京都の南千住にある翼ガラスという中小企業だった。今も存在する企業だ。ここには宮古島の人が大勢来ていた。私にあてがわれた仕事は、注射器を作るガラス細工の職工だった。

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⑥ヤクザにだけはなるな

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 叔母さんの家は男の子4人だから、私を入れれば男の子5人となった。饅頭なんかあっても子供の頭数で割れば、食った気もしない。

 おばあ(祖母)は、自分で食べないで、着物の懐の中に入れてぺったんこになった饅頭を私にこっそり食べさせてくれた。

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⑤おばあの遺言

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 おばあ(祖母)は常雄を東京に行かせると、「ヤクザもん」になってしまうと心配していた。私は子供の時から短気だったし、腹が立つとすぐ手を出し喧嘩っ早かった。

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④中学卒業時の寄せ書き

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 中学校の成績は人に見せられたものではなかった。それでも体育は例外だった。教室ではしょぼくれていた私も、運動着に着替えての体育の時間は俄然、張り切った。

 自分でいうのもなんだけれども、体育の時間だけはヒーローだった。

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③肥溜にハマった

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 家の中にいるより外で走り回る方が好きだった少年時代、畑にあった肥溜にハマったことがある。その日は、仲間と一緒に凧揚げに興じていた。

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②「ごめんね」と言って小5の時、母他界

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 クリーニング屋だった叔母の家には小学校3、4年までいた。ただお袋は、私が5年生の時に、住み込みの米軍基地での仕事を辞め、産婦人科の病院で家政婦として働き始めた。

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①預けられた叔母の家

《日本経営者同友会会長 下地常雄回想録 (第2部)》

 父親は徴兵され外地で死亡したというが、実際のところ詳細は不明だ。宮古島の人たちの多くは戦争中、平良港から船で台湾に疎開していた。母親は終戦後、台湾で生まれ3歳となっていた私を連れて宮古島に戻った。しかし、島では仕事がなかったために沖縄本島で職を得た。

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