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  • トランプvsヒラリー 米大統領選まで1カ月
  • オバマのLGBT外交 米国と途上国の「文化戦争」
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  • 二極化する香港 識者インタビュー
  • 香港誌「前哨」編集長 劉達文氏に聞く
  • 「雨傘革命」下の香港 揺れる一国二制度の行方
  • 揺れる香港 各派リーダーに聞く
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  • 香港「自治」の行方 識者に聞く
  • 中華圏に浸透する同性婚
  • 中台関係の行方
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  • 蔡英文時代の台湾 本土派路線のビジョンと課題
  • ASEANの夜明け アジアハイウエー7000キロルポ
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  • 中央アジア胎動 中国「新シルクロード」と日本の戦略
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  • 新グレートゲーム・中国南進の海
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  • EUと難民 UNHCRウィーン事務所報道官に聞く
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  • 安倍政権 新たな挑戦
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  • 伊勢志摩サミット
  • 憲法改正 ここが焦点
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  • 第3次安倍改造内閣スタート
  • 詳解 集団的自衛権 安保法制案の合憲性
  • 衆院選 自公圧勝 ~課題と展望~
  • ’14衆院選 注目区を行く
  • 第2次安倍改造内閣スタート
  • 日米首脳会談 成果と課題
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  • 普天間基地移設 経緯の検証と提言
  • 「援護法」に隠された沖縄戦の真実
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  • 2013/7/08
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  • 迎撃ミサイル配備 韓国の決断
  • 3代世襲“完成” 北朝鮮第7回党大会
  • 検証 元料理人 藤本氏の再訪朝
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  • オバマ外交と次期米大統領の課題
  • 2016年米大統領選まで1年
  • 再考 オバマの世界観
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  • オバマの対宗教戦争・第2部
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    西田 健次郎
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    豊田 剛
    豊田 剛
    那覇支局長
    宮城 能彦
    宮城 能彦
    沖縄大学教授

    祖国との一体感を求めて開催された東京オリンピック沖縄聖火リレー

     リオデジャネイロ・オリンピックが8月21日に閉幕しました。日本選手団が今大会獲得したメダル数は41個(金12、銀8、銅21)で、前回ロンドン大会の38個を上回って過去最高の結果となりました。金メダルの獲得数では6位、総メダル獲得数では7位です。この勢いで、4年後の東京五輪への期待も大きく膨らみます。東京での開催は2度目となりますが、ここで五輪開催の隠された重要な意義を振り返ってみたいと思います。

    ◇米軍占領下の中で東京五輪を迎えた沖縄
     52年前に開催された東京五輪は、まさしく日本の敗戦からの復興の象徴でもありました。これをきっかけに日本の高度成長は加速し、昭和43年にはドイツを抜いて国内総生産(GDP)世界第2位にまでなりました。しかし、戦後復興のシンボルである東京五輪を語る上において、見逃されている重要な事があります。それは、東京五輪が開催されたその瞬間、沖縄はいまだに米軍の占領下にあったということです。では、当時の沖縄県民は東京五輪をどのように受け止めたのでしょうか? それを象徴するものを見つけました。昭和39年(1964年)の琉球切手です。当時、沖縄はまだ米国の施政権下にあったため、この切手は5円でも10円でもなく「3セント」と書かれています。

    琉球切手:1964五輪東京大会沖縄聖火リレー記念

     切手の下側には、 「1964年五輪東京大会沖縄聖火リレー」と書かれています。
     そうです、米国占領下の沖縄で東京五輪の聖火リレーが行われたのです。

    ◇祖国との一体感を求めて聖火リレー沖縄開催を!
     昭和34年、東京が第18回五輪の開催地に決定しました。その直後から沖縄体育協会は聖火リレーを沖縄でも実施するよう、五輪東京大会組織委員会など関係機関等に強く働きかけていました。昭和37年7月4日、「聖火リレー特別委員会は、国内聖火リレーは全都道府県をカバーすること」「走者は青少年で、日本最初の着陸地は沖縄とすること」を決定しました。

     「日本最初の着地点は沖縄とする!」この決定は、当時の沖縄県民にとっては、言葉に表すことのできないほどの喜びだったと思います。当時は、戦後の現役総理大臣で沖縄訪問を実現した人は誰もいませんでした。また、日本政府は、沖縄返還については「時期尚早で国益に反する」という風潮で支配的であり、返還には消極的でした。日本政府が沖縄の民生向上のための支援を申し出ても、米国は拒否するような関係でした。つまり、沖縄県民にとっては祖国日本に復帰できるのかどうかも分からない、日本の高度成長にも取り残されてしまうのではないかという疎外感が最も強く感じられた時期だったのです。

     そのような中で、祖国日本の世紀の祭典、東京五輪の聖火リレーの沖縄開催は、「祖国との一体感」を体験できる最高のイベントであり、国内最初の着地点として選ばれたのですから、「沖縄はまだ見捨てられていなかった!」という希望と、「自分たちは日本人だ!」という誇りを取り戻す最高のイベントだったのです。

    ◇日の丸掲揚が禁じられていた沖縄
     昭和20年4月、米軍は沖縄上陸直後から、沖縄での国旗掲揚、国歌斉唱・演奏を禁じていました。昭和27年には、政治的な意味を持たない私的な会合での掲揚は許可され、昭和36年には祝祭日に限り公共建物にも日の丸掲揚が許可されました。しかし、聖火リレーの開催日は法定休日でないため、法律的には認められていませんでした。事実、昭和33年の第3回アジア競技大会の聖火リレーが沖縄で開催されていましたが、その時には米国民政府は日章旗の掲揚を許可しませんでした。

    第3回アジア競技会聖火リレー(1958年4月)※日の丸の掲揚は許可されなかった

    ◇米国民政府に日の丸掲揚を黙認させた沖縄県民の祖国愛
     東京五輪の聖火は8月21日にギリシャのオリンピアで採火され、22日にアテネを出発し、世界11カ国を経由して、航空機「シティー・オブ・トウキョウ」号に搭載され9月7日正午、那覇空港に到着しました。予定より1日遅れでした、台風のために香港で1日足止めされていたからです。那覇空港で聖火歓迎式典が行われた後、12時40分に那覇空港を出発しました。第1走者を務めた宮城勇さんは、その時のユニフォームと聖火を今でも持っているそうです。あるテレビのインタビューでは、「当時の自分は、自分達も日本人であるという誇りを胸に走っていたと」語っています。聖火は、4万人もの観衆で人があふれる奥武山陸上競技場に午後1時に到着しました。

    聖火台への点火(昭和39年9月7日 奥武山陸上競技場)

     奥武山陸上競技場では、聖火台点火に引き続き、高らかに君が代が吹奏される中を大日章旗が悠々と掲揚台のポールの上を登って行きました。リレーの走者の若者たちにもTOKYO1964五輪のロゴと組み合わされた日の丸のゼッケンが輝き、聖火ランナーを迎える沖縄県民も同じ日の丸の小旗を振っています。米軍占領後の沖縄でここまで、堂々と日の丸を振ることも、国家を斉唱することも初めてだったでしょう。地元のある新聞は、「沖縄があたかも復帰したような喜びに沸き立った」と報道していました。

    TOKYO1964のロゴマークのゼッケンを着けて走る聖火ランナー(辺野古~嘉陽)

     午後9時まで聖火台で燃え続けた聖火は、琉球政府庁舎内の主席室に一泊しました。翌日9月8日、聖火は那覇を出発して南部に向かいました。南部は多くの戦跡がある地域です。ひめゆりの塔の前では、生き残りの同窓生が日の丸の小旗を手にした児童500人とともに走者の中継を見守りました。摩文仁の丘で聖火ランナーを務めたのは、そこで戦死した者の遺児である金城安秀さんでした。沖縄戦の戦歿者24万人に思いを馳せながら走ったといいます。

     思えば、沖繩で戦死した英霊は、日の丸を掲げて戦ったにもかかわらず、沖繩に掲げられているのは、沖縄に上陸してきた米国の星条旗ばかりであり、長い間日の丸を見ることもなく悔しい思いをされたことだと思います。そこに、東京五輪の聖火リレーで日の丸を見せることはどれほど大きな意味があったかことなのかと思います。

    日の丸を振って聖火を迎える沿道の子どもたち(昭和39年9月8日 糸満)

     上の写真は9月8日の聖火を迎える糸満市の沿道です。大きな日の丸から小さな日の丸まで様々な日の丸が見えます。
     「米国の占領下にあり、日の丸の掲揚が禁止されている冲縄の沿道を日の丸で埋め尽くした!」
     これが、五輪の力です。日本国民の心を一つにし、民族の心を一つにする。平成32年(2020年)の東京五輪をきっかけにして、再び日本民族のあるべき姿を取り戻すきっかけになることを信じます。

    ■名護市嘉陽の聖火宿泊碑
     聖火は南部を回った後、北上し、現在の名護市嘉陽という部落に到着しました。嘉陽は、名護市の東側で太平洋に面した部落であり、那覇から約80km、普天間基地の移設予定地である辺野古の北側にある小さな部落です。近くに嘉陽小学校がありましたが、近年の過疎化のため平成21年4月に閉校してしまいました。その小さな部落に、「聖火宿泊碑」というモニュメントが残されています。この聖火が嘉陽に到着するとその記念碑の前では式典が行われた後、様々なエキシビションが行われました。

    聖火宿泊碑の前での式典(昭和39年9月8日 名護市嘉陽)

    聖火宿泊碑除幕式(昭和39年9月8日 名護市嘉陽)

     上は聖火宿泊碑の除幕式の写真です。キャンプ・シュワブに駐屯している第3海兵師団は、聖火リレーへの協力体制を敷いていました。嘉陽での宿泊者用テントやシャワーの設営、炊き出しなども担当しました。また、聖火宿泊碑の建設にも協力しました。現在もキャンプ・シュワブの海兵隊は地元の住民と仲良しですが、その関係はこの頃から築き上げられていたようです。

    現在の聖火宿泊碑

    聖火宿泊記念碑 ※記念碑には、9月7日と刻まれていますが、台風で沖繩到着が遅れたため実際には9月8日です。

     今では、沖繩が日本に復帰できたことは当然のように思われていますが、実はそうではなく、当時は沖縄が日本に復帰できるかどうか全く分からない時代でした。子どもたちは日本円を見たことも使ったこともなかったのです。米軍占領下の中で、沖縄本島北部の小さな部落で、祖国日本の世紀の祭典に参加し、このような式典を行った事はものすごい誇りだったんだろうなとの思いがよぎります。五輪の種目競技そのものではなく、聖火リレーであったけれども、その感動は東京の五輪開催以上だったのではないかと思います。

    ◇東京五輪の翌年に実現した佐藤栄作総理大臣沖縄訪問
     東京五輪の翌年の昭和40年、日本政府の沖繩返還交渉が本格化しました。佐藤栄作総理大臣が、戦後歴代の総理大臣として初めて沖繩を訪問したのです。

    那覇空港で演説する(故)佐藤栄作総理大臣(昭和40年8月19日)

    総理大臣の訪沖を沿道で歓迎する石垣市民(昭和40年8月21日)

     私は、佐藤総理大臣が東京五輪の翌年の昭和40年に沖繩訪問を行ったのは、単なる偶然ではないような気がします。昭和39年に開催された東京五輪が戦後、別れ別れになっていた沖繩と本土を再び引きつけたような気がしてなりません。米国にとって沖繩県民に日の丸掲揚を認めるということは、占領を放棄するに等しい事です。

     それを、東京五輪の聖火リレーで米国民政府に事実上認めさせる事に成功したのです。そして、米国にとって総理大臣の沖縄訪問を認めるということは、事実上に沖繩占領を放棄する事を宣言したに等しい事件だと思います。この二つの事件は、米国の沖繩占領政策が沖繩を占領し続ける方針から、返還した上で基地を置く方向に大きく方針転換した証だと言えます。昭和39年、40年の2年間で沖繩の祖国復帰は大きく実現にむけて大きく動いたのです。その後、具体的な返還交渉が始まり、様々な問題が続きましたが、わずか7年後の昭和47年5月15日に沖繩県祖国復帰が実現しました。それから約半世紀が経過し、再び、東京五輪開催が決まりました。これは、経済発展の起爆剤というだけではなく、日本国民の心を一つにし、日本民族の誇りを取り戻す大きな起爆剤となる力を持っています。

     今こそ、昭和39年の五輪の果たした役割を再確認し、日本再建のビジョンに組み込むべき時だと思います。私は、東京オリンピック2020は、沖縄県民を日本に侵略され滅ぼされた民族とする「国連先住民族勧告」や「琉球独立論」という声を封じる力を持っていると確信しております。昭和39年と同じ様に、沖繩と本土の日本国民が心を一つにするような五輪運営を是非実現を心より願っております。 

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